2014/08/13

「ずっと続けたい」中毒性欲求

甲子園が始まった。去年の今ごろ、甲子園のラジオを聞きながらあてもなく「ノート」にぐるぐる描いていたことを思い出した。暑くて。ダイニングのテーブルで。ラジカセで。

スポーツの実況を聞くのは中毒性がある。けどそれは競技によるかもしれない。甲子園はとくに、もう一度聞きたい!と思うと、もう1試合すぐに始まって、ああいい試合だった、もっと聞きたい!、するとまた始まる。一日中どんどん聞くことができる。だからお盆中ずっと聞いている。去年も一日中聞いていた。ずっと聞いていたくなる。その夏の全試合のDVDがあれば買うと思う。別にだれが活躍したか、とかはどうでもいい、ただ実況というのが楽しい。結果を知っていても聞きたい楽しさがある。でもなぜかプロ野球にはそういう楽しさは感じない。1回きりだからだろうか。

サッカーのWカップ決勝もラジオで聞いた。結果を知っていても何度も聞いてもいい。録音して何度も聞いている。冬の五輪のフィギュア個人。これは何度か聞いたら飽きた。この違いはなんだろうと考える。

相手がいるから? 球技? でもマラソンもずっと見ていたい競技だ。ルールや技の名前を知っているから? いやいや、サッカーだって、フィギュアと同じぐらい知らないよ。相撲は? ちょっと中毒があるかもな。1日中やっている競技は基本的にそういうものかも、相撲も1日中やっているもの。

中毒というのが、このところ制作のテーマだ。身体と深いかかわりがあると思う。ゲームをやり続けると、ゲームのときの手の動きを身体が欲求する。編み物もそうだ。電車で編み物をしている人をよく見かけるのは、きっと中毒性があるからだと思う。自分もむかし、空港で飛行機を待ちながら編んでいた。仕事の出張先にまで持っていったのは、中毒性のためだ。そういう身体から出るものに注目する。

枯渇感も次へ次へと促す力だと思うけど、中毒性も同じだ。例えば村上春樹の小説を求めるのは、中毒性のためだ。奈良美智の作品もそうだ。もっともっと見たい、もっともっと読みたいと思う。そういうのが、私は作品のよさ、だと思う。そうだ、漱石もそうだし、高村薫も、私が好きな作家はみんなそうだ。だから、好きになるとほとんど全部読んじゃう。

それでまた、ピカソのドローイング集をまた見たんだけど、もっともっとと思って描いたんだろうなと思う。こっちももっともっとと思って見る。「ほかには?ほかには?」とせがむ子どもみたいな気持ちになる。作家の欲求が他者の欲求に沿って、幸せな作家だと思う。

作品は完成度という人がいたけど、私は未完のものが好きだなと思う。どうなるんだろうと思いめぐらす楽しさ。ページをめくるように見続ける楽しさ。

そんな中毒になって描いたドローイングの作品を出展します。どんどん描いてどんどん楽しいんだ、というのがちゃんと出ているといいんだけど!

3331千代田芸術祭2014  展示部門「3331アンデパンダン」 @3331アーツ千代田(東京・神田) 2014/08/23(土)~09/07(日)