それで先日の温又柔のトーク・イベントで思い出したのは、須賀さんのことだ。二重に2つの世界で生き、2つの言語の間で生きた人だから。ペッピーノが「これはすぐに君の本だと思った」とくれたギンズブルグの本をしがみつくように読んだ須賀さんのことを思う。「日本語で書くかイタリア語で書くか、それはそのときになれば自然にわかるはずだった。」。ふたつの世界の書店を営む詩人サバを愛していた須賀さんのことを思う。ずっと書きたかった、その思いを持ち続けていたこと、そのことを思う。
温さんにとってのリービ英雄、須賀さんにとってのギンズブルグとサバ。希望とはそんなことじゃないかと思った。
「制作が進まないんだ、どうしていいかわかんない」と友人にメソメソ相談したら、「ヒナちゃんの作品はヒナちゃん自身だから、色々続いたからヒナちゃん自身出し切ってしまったんだよ。少しゆっくりしたら? またヒナちゃんの体を通って、素敵な作品へときっとつながるよ」と言われて、本当にそうだなと思う。とにかく作り続けたほうがいいとも、少し休んだほうがいいとも、両方思う。
いろんな人がいろんなことを言う。前は、内容が重要だと思ってた。でも今は、「誰が」言うかが重要だと思う。内容なんかより、それは誰の言葉か、たぶん他の人が言っても受け入れないだろう。その人だから、ただただあたたかい気持ちが流れ込んでくる。
☆今日のアナログハイパーリンクな読書
温又柔→須賀敦子
温又柔「線上の子どもたち」→吉村萬壱「希望」(『文藝 秋号』)